有末精三

仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校、陸軍士官学校で恩賜の銀時計。陸軍大学校で恩賜の軍刀。陸軍省軍務課長時代に阿部内閣の実質的成立者といわれた。 終戦時は参謀本部第二部長。8月15日に森赳近衛師団長から「オイ!!第二部長なんていうものは誰でも出来るよ、乃公(我が輩)でも勤まるよ。第一貴様は皇太子様に勝ちもしない戦を勝つ勝つとウソを申し上げたじゃないか」と詰問された。森はこの日の晩に、日本の降伏を阻止しようとする将校達によって斬殺され、有末は渉外委員会委員長となり、GHQと陸軍との連絡役として働くことになる。 7月に皇太子殿下に戦争は勝ちますなんて言いながら、それから2か月もしないうちに、マッカーサーの先遣隊に「マッカーサーのために芸者は何人用意いたしましょうか」なんて尋ねる人だから、終戦後もしぶとく生き延びたのは当然といえる。 有末は、マッカーサー先遣隊のテンチ大佐等が厚木に降り立つと、真っ先に一行へ駆け寄り(上の写真のように振る舞い)、取り入り作戦を開始。あろうことか、敗戦前から秘密裏に回収していた諜報関係資料をチャールズ・ウィロビー少将(諜報担当)に提出して歓心を買った。その後、東アジアおよび日本国内の共産主義者に対する諜報網を作ることをウィロビーに約束したが、この計画は嘘やでっち上げによる資金集めにすぎないとCIAに報告されている。またCIAの記録によると有末とその部下は在日中国共産党員に情報を売っていたことが明らかになっている。 昭和天皇は、役職を超えて政争に関与した有末を毛嫌いしており、阿部内閣の陸相人事に口を出したのは有末の影響力を排除するためだと語っていた。また戦後になり「有末はなぜ戦犯として逮捕されないのか」と周囲に尋ね、この話を聞いたGHQのモーガンは有末の戦犯指定を検討するが、ウィロビーの反対により実現しなかった。